会報誌(DDKだより)
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2013年08月発行 第231号 DDKだより
巻頭言:被爆建物の記憶
亀井 賢伍
昭和29年、社会人として初めて勤務したのが商工中金広島支店でした。赤レンガ張り3階建ての建物は市内中心部では数少ない原爆生き残りでした。「八丁堀」と「紙屋町」の中間、電車通りに面していました。原爆ドームは別格として、「死の人影」が残った「住友銀行」(当時)は有名でしたが、この建物はさほど話題にならなかったようです。昨年暮れ、神奈川県立公文書館で、偶然「ヒロシマの被爆建造物は語る」に出会い、嘗ての職場の写真を発見懐かしく感じました。
ここでの勤務は3年間でしたが得がたい体験をしました。
金庫室の中に、蒸し焼きになった紙幣がモノとして残っていました。丁寧に触らないと崩れる状態でした。営業場の小金庫の中には、水をいれたガラスコップが置いてありました。こうすれば書類が蒸し焼きにならないから、と教えられました。
支店の水道料金が、戦後一度も支払われておらず多額の請求を受けました。予算外、支店権限外の大金ですから本部の決裁を受け支払いました。10年間請求がなかったことは明らかですが、歴代の職員が気付いていたかどうかは謎です。また、すでに売却済みの社宅の固定資産税の請求を受けた記憶もあります。なにしろ、半世紀後も「幽霊戸籍」が少なからず存在していたのですから、この程度のことは珍しくなかったのかもしれません。原爆の社会的影響です。
状況は無論違いますが、福島原発事故の収束、ふるさとの自然・社会(コミュニティー)の復興の先行きを思わずにはいられません。
68年目の8月を迎え往時を偲びました。「現在にも盲目」にならないために。
(注)「ヒロシマの被爆建造物は語る」━被爆50周年:未来への記憶━」広島平和記念資料館発行1996年)によると、建物は爆心地から610m、竣工1929年12月、解体1983年11月。商工中金は1943年11月から1963年7月まで入居。1964年11月から解体まで山陰合同銀行が入居となっています。