会報誌(DDKだより)
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2014年04月発行 第239号 DDKだより
巻頭言:中学時代の恩師を偲ぶ
亀井 賢伍
毎年、広島に修学旅行に行く中学校が近くにあり事前学習の場に招かれました。先生や生徒と接するうち、自分の中学時代の記憶が蘇ってきました。そんなことで中学校の恩師について書くことにします。
中学(旧制)の担任は、入学時から三年生までI先生でした。生物の先生でしたが、授業より担任教師として多くのことを教わりました。先生は戦時下の特殊な状況のもと一時的に中学教師の職に就かれたと思いますが、それでも熱血青年教師として全力投球されました。
先生の父上は、広島市内の有名女学校の名校長として知られ、兄上は、後に広島大学の教授として原水爆禁止運動でも活躍された学者です。中学校でこの先生に出会えたことは僥倖でした。二つのことが思い出されます。
一つは、生物の先生でありながら、担任のクラスに数学の補講をされたことです。新任の教師にしては思い切った行動だったと思います。
もう一つは、三菱重工に勤労動員中、工場の職制が部下をどなる調子で生徒を叱ったとき、先生が血相を変えて抗議されたことです。学徒の本分は勉強なのに との念いがあったのでしょう。後年「自分史」でこの頃の事について次のように述べておられます。「授業料を払いつつもいつもペンを捨てさせられ、労働に駆り立てられ、そしてなお命の保証もまったくない生徒たちに何をおしえてやれるだろうか。[略]運命共同体の一員として教師と生徒、生徒同士が互いに愛し信じあえるよう努力することを行動でもって知らせるほかなかったのである」
先生は戦後、被爆の影響で体調を崩されましたが、1946年金沢大学(当時、金沢高等師範)に職を得て研究者の道に進まれました。その後、大阪大学教授、福井県立短期大学長,鳴門教育大学長、広島女子大学長をつとめられました。
93年、先生は勳二等旭日重光章を受章され、東京での祝賀会に広島二中時代の教え子7人でかけつけ大層喜ばれました。