会報誌(DDKだより)

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2014年12月発行 第247号 DDKだより

巻頭言:建物疎開作業の悲劇 ━抵抗した教師も━


亀井 賢伍

被爆者として中学校の「平和学習」に招かれたとき、建物疎開作業の悲劇について語ることにしています。
 理由は、?聴き手が犠牲者と同じ年頃である ?後輩の1年生300名余が被爆死した?自身も同じ作業に従事した体験がある、からです。
この作業は、米軍の焼夷弾爆撃による建物の類焼を防ぐため、木造建物を取り壊し空地を造るものです。
 広島では、この作業に1945年8月2日から向こう一週間、延べ30万人を動員する計画でした。その中に、中学校、高等女学校、国民学校高等科(注)の1,2年生が含まれていました。3年生以上は、前年から、軍需工場等に動員されていたから除かれました。
 ただし、工場に動員されていた3年生も1日か2日間、交代で建物疎開作業に回されたケースもありました。私のクラスも、三菱重工業に動員中でしたが、8月初め1日だけ、市内小網町で作業しました。もし、6日でしたら全員死亡したでしょう。
 私の在学していた広島二中の1年生は、爆心地に近い、中島新町で300名余が被爆、大半が即死、8月11日までに全員が亡くなりました。

 広島の建物疎開作業による動員学徒の死亡者数が約5,900人と全国でも突出して多いのは、原爆のせいだけではありません(長崎には記録・資料がない)。軍責任者の強圧があったからです。動員を決定する会議で、F中将は、軍刀で床を叩きながら迫ったと言われています。 
    
 一方 そのような状況下で、生徒を思う一念から、圧力に抗して若い命を守った教師が存在したことも判明しています。
 「6日は自宅修練とする」として休ませた1中のT先生、軍への非協力をなじられながらも動員を8月5日で打ち切ったA国民学校のS教頭、命令を無視して当日、教室待機を命じたH高女のK校長などです。
 生徒さん達が対象ですが、臨席の先生方の反応も気になるところです。

(注)小学校は1941年9月から47年3月まで国民学校と呼ばれた。高等科は現在の中学校1,2年生にあたる。