会報誌(DDKだより)

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2019年09月発行 第304号 DDKだより

巻頭:被害者と加害者


河原 八洋

 8月9日、「息あるものは肉親を探し求めて、死骸を見つけ、そして焼いた。人間を焼く煙が立ちのぼり、罪なき人の血が流されて浦上川を赤く染めた」山口カズ子さん(91歳)の詩を引用して田上富久長崎市長が平和宣言を読み上げた。この1カ月前7月4日中小企業家同友会全国総会が東京であり、江東区にある戦災資料センターを見学した。元館長早乙女勝元さんから罹災住宅70万戸、死者10万5千人を出した東京大空襲のお話を伺った。長崎原爆投下の5カ月前、3月10日の出来事である。先の戦争で亡くなった軍人は230万人、一般市民は80万人ともいわれる。これは日本人だけの人数である。
 高級ホテルチェーン「シャングリラホテル」創業者でマレーシア人のクオック氏は「日本軍によって、同じ学校に通う女子学生がレイプされ、家族とともに殺された。また州郊外の集落では、華人の多くが殺され親友も犠牲になった」と朝日新聞のインタビユーに応えている。この、国内外の2つの出来事は同じ「戦争」によって被害を受けた、各々の市民には悲惨な事件であるが、仕掛けた側と仕掛けられた側では、その傷の深さは全く違う。昨今の日韓関係を見ていてもよくわかる。
 百歳で亡くなられた三笠宮崇仁殿下は陸軍大尉として出席された満州での参謀会議で、「毛沢東の八路軍より陛下の皇軍の方が軍に乱れがある」と言って日本軍の乱れを叱ったそうです。私の父も満州に派遣され、連隊長付き指揮官として終戦まで満州とソ連、モンゴルの国境で要塞を造る任務に当って居た様ですが、関東軍司令部から秘密保持の為、「労工を総て殺せ」の命令を連隊長は「下に伝えるな」と指示したそうです。終戦に成り元将校5163人の軍事裁判で927人が死刑、多数の無期禁固刑者が出ましたが、所属連隊からは連隊長を筆頭に訴追は無かったと、連隊長のご子息から手紙で伺い、良くやったと思いました。私の父は無事帰国でしたが、私が生まれる1カ月前に他界しているので話は聞けていません。両親が住んでいた金沢は爆撃を免れた為、連隊長さん一家は落ち着くまで当家に同居していました。
 今年の8月15日新天皇は「深い反省の上に立って再び戦争の惨禍が繰り返さぬことを願う」と述べられたのですが、細川政権以降続いた「反省や哀悼の意」の言葉は今年も安倍総理からは有りませんでした。
 1985年3月、イラン、イラク戦争によりテヘラン空港に取り残された日本人216名救うため2機の飛行機を飛ばしてくれたトルコは、100年前に遭難した「エルトゥールル号」を救ってくれた日本人への恩返しとの事でした。
 事の善悪は反対ですが、いずれも受けた側の事を忘れてはなりません。