会報誌(DDKだより)
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2021年10月発行 第329号 DDKだより
巻頭:それは‘ピクニックに行こう’というジョークから
青木 正1989年 今から32年前の夏、軽いジョークのつもりで発せられた言葉が、3か月後に世界の歴史を大きく変えるきっかけになろうとは誰も予測しえないことだった。
大きなうねりの胎動は、遡ること4年前1985年に改革派54歳のミハイル ゴルバチョフ氏が、情報公開と構造改革を掲げソ連のトップに就いた時からすでに始まっていた。翌年には、当時アメリカの若手現代アートの奇才キース へリングがベルリンの壁に大勢の人々が手と手を繋ぐ壁画を描いた。そのまた翌年には、ロックミュージシャンのデビッド ボウイが壁の向こうの東ドイツ東ベルリン市民によく聞こえるような大音量でコンサートを敢行、自由の素晴らしさをアピールした。
その当時の東欧諸国は、ゴルバチョフ氏の一挙手一投足を気にしながら、徐々に民主化へと舵を切っていたが、東ドイツは永年の独裁者が病気療養に入り、No.2が政権を代行するも、国民を秘密警察が監視し、他国移動は東欧諸国に限定されたままで、民衆の不満は爆発寸前に。
その東ドイツ国民の心情に理解を示したのは、民主化へと徐々に方向を転換しつつあったハンガリーの名士だった。ハンガリーと隣国のオーストリアは約100年前まで同一国家で、そこで両国の国境の街にピクニックに行って、元々同じ国の市民同士交流してバーベキューをしようという軽い冗談話が持ち上がり、行き先は三方が国境に囲まれた’ある街’が選ばれた。それは東欧諸国への移動のみが許された東ドイツ国民に、ハンガリー経由で西側に逃れられるかもしれないという僅かな希望の光を与えた。インターネットの夜明け4年前にもかかわらず、口コミが口コミを呼び、国境の’ある街’は西ドイツに逃れたい東ドイツ国民であふれた。個々では小さな力であっても大人数になった外国人の団体行動をハンガリー政府は止められず、国境は開かれ、隣国オーストリア政府も人道的見地から東ドイツ国民の西ドイツへの移動を仲介することに。これによって東ドイツ政府の権威は完全に失墜、3か月後にベルリンの壁は市民の手で壊され、東ドイツという独裁国家は崩壊した。
独裁国家の末路は実にあっけない、個々の人々の力は小さくても、まとまれば大きなうねりとなる。戦後民主的な環境が当たり前の中で育った私たちは、今も独裁国家に暮らしている人たちが大勢いるということを認識し、私たちに与えられた権利をしっかりと理解することが大切だと思う。